2010年12月3日金曜日

バーネット・ニューマン「在れ I (Be I )」1949 年 ― 対峙する感情

「アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン」展は2010年9月4日から12月12日まで川村記念美術館で開催され9月、10月、11月に見る機会があったので、私自身が実際に見たことを「在れ I (Be I )」(1949)を中心に書いてみたい。言うまでもなく現代の絵画、視覚における芸術を考える上で避けることができない中心作家でありながら、日本では川村記念美術館所蔵「アンナの光(Anna’s Light)」と国立国際美術館所蔵「夜の女王 I (Queen of the Night I)」くらいしか作品がなく、なかなか全貌が掴みづらい作家である。今回は点数こそ少ないながらも初期から晩年に至る作品をまとめて見ることができ、作家の全体像を知ることができる日本では最初の待ち望まれた機会であった。

「在れ I (Be I )」(1949)は作家が自らの表現を確立して間もない時期の作品だが、今回の展示でも重要な作品のひとつであると思える。ただし今回のカタログでは触れられていないが、画面中央から少し上に水平に、そしてその下にも斜めに1959年の破損に対するものと思われる補修痕があるのが残念である(ニューマン自身補修後の作品に満足しなかったようで、1970年にサイズを大きくした同題のセカンドバージョンを制作している)。画面は非対象でほぼ赤のモノクローム、中央に作家自ら「ジップ」と呼ぶ幅の狭い垂直の白い帯のような部分がある。

ジップの幅が狭いこと、キャンバス全体が236,5×190,8cmという縦のフォーマットであること、カドミウムレッド系と思われる濃密な色彩の強さによって、ジップによっても画面はばらけることのない単一性を保ち、かつジップの白の強さによって画面は開かれるように左右に平らに広がる。この作品のジップの白は周辺の赤とのコントラストが激しいので一見塗り残しの地がのぞいているようにも見えるが、仔細にみると最上部はかなりの厚塗り(周辺の赤い部分はキャンバス目がわかるが、ジップ部分はずっと厚く筆痕も残る)で、下部では部分的に周辺の赤が混じってもいて、ジップが画面上に引かれたようにも塗り残しのようにも同じ表面のようにも見える。

離れると一様にも見える赤の部分も近づけば塗りのむら(10cm程度の幅のブラシ痕が良くわかる)がある。その暗さもある強い赤は油絵の具特有の樹脂分によるわずかな半透明感を感じさせて生々しくもあり、言いがたい存在感を持って感情のようなものを引き出しもする。この「むら」はブラシで塗るという制作の持続そのままのあらわれであって、制作の持続がそのまま自然発生的な画面の表情になっている。そのために単に平坦な物体の表面というものではなく、かつ絵画とも言い切れず画面は自然物の持つ表情に近いものになって、さらに感情を伴い、言いがたい感情の起伏を眼前に見ているようにも思われて来る。

同じ赤系統の色彩を持つ晩年の大作「アンナの光(Anna’s Light)」の、アクリル絵の具による朱赤系統の明るく軽めの赤とは大きく異なる油絵の具の重々しさと厚みと生々しい存在感がある。その画面サイズ、スケールは身体より少し大きい(極端に大きいのではない)ことで、見る者にもの言わず対峙する何ものかとして作品全体の一体感を感じさせると同時に、少し近寄ると画面内部に引き入れもするサイズ(「アンナの光」ではその巨大さで最初から見る者を画面に包み込んでしまう)であって、全体でもあり同時に部分でもあるというニューマン作品の性格を強く感じさせる。

ニューマン作品の多くはキャンバスを使用した平面である。しかし、その表現としてのあり方は絵画とは異なった場所に至っているのではないだろうか。それは「夜の女王(Queen of the Night)」や今回は来ていない「野生(The Wiled)」のような極端に縦長のフォーマットにおいても別のかたちで感じられることである。ニューマンは最後までキャンバスと絵の具を使用して制作しているが、作品の表現のあり方、表現のあらわれは絵画という形式とは異なる視覚における表現のあり方を指し示しているようにも思われるのである。

最後に、今回のカタログ中で「存在せよ I 」とされている「Be I 」の日本語訳は、ただでさえ思弁的に捉えられやすいニューマン作品をさらに思弁的、哲学的に感じさせ過ぎるので、この文中ではあえて「在れ I 」と訳した。これは旧約聖書にある、神が天地創造に際して言われたことば、「光あれ」の「あれ」に近い言葉のように思われる。この文脈で「原初の光(Primordial Light)」や「アンナの光(Anna’s Light)」も考えることができると思うが、それについては稿を改めて書いてみたい。

(美術家)