2013年11月6日水曜日

失われた光


 バーネット・ニューマンの「アンナの光」が売却されたとの突然のニュースを知って驚ろかされた。ただでさえ日本国内にニューマン作品は少なく、あまつさえニューマン固有の大画面による色彩空間、芸術を体感できる作品としては唯一無二の作品であった筈だ。日本で初めて大規模なニューマン展を2010年に開催した美術館にしてこの所行はないだろう!と苦言のひとつは言っておきたいと思う。
千葉県に生まれ、今も県内に住む者として、あの作品が佐倉にあることは密かな誇りであり、折に触れて立ち寄って見ることができるという深い喜びを感じていただけに返す返すも残念でならない。

このブログを始めた2010年12月に最初の文章としての、 バーネット・ニューマン「在れⅠ(BeⅠ)」—対峙する感情—  という一文の中で「ニューマン作品の多くはキャンバスを使用した平面である。しかし、その表現としてのあり方は絵画とは異なった場所に至っているのではないだろうか。(中略)ニューマンは最後までキャンバスと絵の具を使用して制作しているが、作品の表現のあり方、表現のあらわれは絵画という形式とは異なる視覚における表現のあり方を指し示しているようにも思われるのである」と書いた。

そしてその翌月となる2011年1月、「アンナの光」に関しての多くの人の評価に反発して書いたのが バーネット・ニューマン「アンナの光(Anna’s Light)」1968  色彩による独自な空間表現 であった。

私がそこで言いたかったことは、ニューマンの作品は二次元としての絵画と同様な体裁をとりながらも、実際の見る体験としてその視覚のあらわれは絵画とは異なる次元に移行しているという指摘であった。ニューマンの絵画は二次元のままに、ついにこのような地点に立ち至って絵画から超出しているという論旨である。

しかし私の考えとは異なり、私の知っている範囲(作家中心に)では必ずしも評価の高い作品ではなかったように記憶している。いわく「ニューマンの作品としては少し落ちる」等々。

芸術、それも新たな枠組みを提示している作品に関して、評価するのは難しいことだと思う。それは何よりも、その作品において実現、提示されている、今までに無い新たな芸術の枠組み自体の受容と理解のもとに為されねばならないからだ。このことがないままにいたずらに作品の出来云々を感覚的に語ってしまうことは、古い価値基準で新しいものを規定してしまうことであり、意味をなさないばかりか百害あって一理なしである。そして実際に「アンナの光」に関してニューマンの芸術理解のもとに評価が為されるといった場面には遭遇したことはなかった。評価を云々する作家がニューマンの芸術に関してどのような理解をしているのか、といった主張にも出会ったことはなかった。今回の売却決定に際してそのような間違った評価が背景になっていなかったのなら良いのだが。

ニューマンの芸術に関しては藤枝晃雄氏の『現代美術の展開』で多くを学んだ(かつて初版で読んでいたのだが、現在手元にあるのは1986年に出された版である)者である。とりわけ「実質的な表現としての視覚的な見えは全体的ですらなくなり、見えて来る部分のみが表現となるもので、それはあらわれといえるだろう(315ページ10〜12行)」という一文は、視覚における表現のあり方を予言的に指し示しているように感じる。この「あらわれ」という言葉を私のいくつかの文中で使っていたのであらためてここで書いておきたい。

今、「アンナの光」が失われたこの時点で、『現代美術の展開』をじっくり再読してみたいと思う。

                           古川流雄(美術家)