2013年12月9日月曜日

桑山忠明   「Untitled:red」1961 を中心に


今回の文章はバーネット・ニューマンの 「在れⅠ(BeⅠ)」1949 と比較して書いた2010年の文章から、桑山の部分だけを取り出して加筆修正したものである。ちなみにバーネット・ニューマンについては同様に単独の文章にしたものをこのブログの第1回に掲載している。元の文章はある研究会での発表用にまとめたもので今まで公にしなかったのだが、ニューマンとは異なりながら私にとって重要な作家である桑山忠明に関しても、きちんとまとめておきたいと思う。

「静けさのなかから:桑山忠明」展は2010年4月24日から5月30日まで名古屋市美術館で開催され、最終日5月30日に見ることができた。1961年のグリーン画廊での初めての個展作品から近年のインスタレーション的作品までをコンパクトにまとめた展覧会で、桑山忠明の全体像を知ることができる内容であった。展示には本人も関わっていたようだが、1980年代の物体感と表現性が強まった作品を排除した展示になっていたことで見やすくなっていたように思われる。

「Untitled:red」1961

桑山忠明のUntitled:red(1961)は併置された二枚のパネルと全体を取り囲む生成りの薄い木のフレームから成る。赤という単一性の強い色彩とフレームが全体を一つにまとめ、中央にあるパネルとパネルの接合部分の隙間が物理的に左右の画面の広がりを作り出していて、空間的というよりも即物的な表面の広がりを見ることになる(パネルの接合は日本の障壁画を思い起こさせる)。
  
                    
色彩は日本画で通常使用される膠ではなくアクリル・メジュームを媒材として岩絵の具を使用しており、表面にとどまる無光沢な不透明さがある。画面全体に及ぶ絵具が塗られる際につけられた水平方向の畝が、さらに表面を強調するかのようであり、その畝が上からの照明の光を捉えるようにもなっている。

この画面と光との関係は、テープ状の紙を若干斜めに交差するように貼ったレリーフ的作品でさらに強調されている。畝、レリーフ、銀箔等で捉えられた光は、その後のクロームストリップの使用や光沢を持った表面、更には70年代のシルバー・グレイの作品群、近年のインスタレーション的作品の金属の表面にも引き継がれる、桑山作品に共通する特徴的な性質になっている。「Untitled:red」の畝はこのように意図的に作られてモノクローム画面の単調さを救い、通常の絵画での深さのイリュージョンではない、表面としての空間表現を作り出すためのものにも思われるが、この作品に関しては少し古い絵画的表表面と感じさせる気もする。

この作品は、見る者から近くても遠くても物体的な見え方で、近づくと表面の畝が見えて顔料の物質感と表面が強調される。画面中央で2枚のパネルが接合されていることがさらに物体であることを強調する。全体が塗装されていない生成りの木のフレームで囲われているのは額縁のようでもあるが、額縁としての作用より、倭絵などで筆で太く描かれている輪郭線のような役割を果たしているように感じられる。同じような効果を少し後の作品で使われるようになる画面の縁取りにも感じることができる。

桑山「Untitled:red」における赤は、感情とはほとんど関わらずにそこにあるように思える。赤い、ただ赤い顔料が塗られた表面という性格。赤いのに冷たくそこにある印象は、近年のインスタレーションでは更に強まり、アノダイズド・アルミニウムやアノダイズド・チタニウムの見る者の位置に応じて動来続ける反射光、変化する色彩が、見る者の感情=記憶と関わらずに現在という流れ続ける時間を感じさせるようになる。見る者の今現在のあやふやな感覚と意識が流動的でとらえどころなく感じられてくる。その一方で作品はただ前に在るばかりである。

矩形の平面であることが絵画にとっての必要にして充分な条件であれば、桑山の「Untitled:red」にしろ絵画であると言い切ってしまえる。しかし実際にはその作品のあり方は絵画とは異なるものになっているように思われる。

絵画という区切られている空間ではなく、現実の空間の一部として目の前にあって、体験する事で自らの感覚のあやふやさ、今現在という時の曖昧さを突きつけられるような見え方をしている。バーネット・ニューマンとは異なるあり方で、絵画とは別の表現形態になっているように思える。
                                                     古川流雄(美術家)