2014年12月10日水曜日

EVA HESSE(エヴァ・ヘッセ)  ー 樹脂(FRP)というミディアムの出現ー



EVA HESSE(エヴァ・ヘッセ)  ー 樹脂(FRP)というミディアムの出現ー

初めてエヴァ・ヘッセの作品を見たのは1976年、当時池袋西部デパートにあった西武美術館での「アメリカ美術の30年:新しきものの伝統/ニューヨーク・ホイットニー美術館コレクションから/アメリカ合衆国建国200年記念」展ではなかったか。カタログがあったはずだのだが、見つけ出せない。

この展覧会で私は初めてアメリカ現代美術を、ある程度まとめて見る事ができた。充分理解できないままに、それでも見ていた感覚は今もリアルに残る。ニューマンの、マスキングテープで白と青に塗り分けられた壁のように不透明な表面は、それまで見ていたどんな絵とも異なり目の前に視線をはね返すように、ただあった。ポロックの作品も並んでいて、その時はとてもきれいとは言いがたい印象だった(ニューヨークで大きな作品を見た時にはこれほどにもきれいで官能的な作品があることが信じられないと思えたのに、日本で見るポロックはあまりきれいに見えないのが残念だ。良い作品が来ないせいなのか、空気中の湿度の違いなのか)。それらの作品の中に、歪んだ棚のようなエヴァ・ヘッセの樹脂による作品があったと記憶しているのだが。ぬめぬめとして気持ちの悪いような質感だったことを思い出す。

その後1983年夏、ニューヨークに絵を見るために行った短い旅行の際に、再びエヴァ・ヘッセの作品に出会っている。ホイットニー美術館だったか。
この時は資料として画集やカタログを購入して重たいトランクで帰ったのだが、その中にMoMAで購入した「EVA HESSE」があるのは、自分で樹脂を使い出す直前の時期で興味を持ち出していたのだろうと思う。その後、この本はずっと私の手元にある。同時にMoMAで購入した画集中には、旅行中に見たなかで最も興味を抱いたジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、モーリス・ルイスなどがあり、どの作家も今も私の深い関心の対象であり続けている。

Eva Hesse    SansⅡ   1968

1980年前後という時代は、現代美術において再び感覚的な領域での積極的な表現が求められ、試行され始めた時期である。
アメリカのARTFORUM(September1980)に掲載された「Energism:An Attitud, by Ronny H.Cohen」というエッセイ、日本での藤枝晃雄企画「感情と構成・展」などがその状況を良く伝えていたと思う。それを継承したと考えられるのが「内面化される構造」展で、こちらは早見堯企画、この展覧会は私も参加していてとても感慨深いものがある。床の上の作品を発表したのだった。彫刻、絵画という伝統的な形式の終焉を敷衍したと考えられるミニマルアート、コンセプチュアルアートの、さらに後の表現とそのあり方を探す時期であり、アメリカにはリンダ・ベングリスやFRPの可能性を見せていたTom Butter(何年か後に日本で実作を見た憶えがあるのだが、記憶違いだろうか)などもいた。

Benglis     ModernArtNo.1      1970-74

 
Benglis    Victor       1974

この時期の樹脂の使用には、単なる素材としての意味に留まらない新しいミディアムとしての樹脂の可能性、そして新たな構造につながる形態の可能性が感じられる。
1980年に先立つ1968年というミニマルアート後期のEVA HESSEによる樹脂、FRPの使用は最も早い使用例のひとつではないかと思われる。それ以上に「SansⅡ」や「Repetition NineteenⅢ,1968」に見られるような、型を使用しない(訂正;画集を良く確認してみたらgum rubber mold castを使用しているので型は使っているようである。ただ、先端部分の変形は型とは無関係ではある)FRPの使い方によって出現する「ゆがみ」の導入(まだおずおずとしたものであったにせよ)は、作品全体としては依然ミニマルアートの構造の周辺に留まるにしても、充分に新しい表現形態の出現を予感させるものだったと思える。
(今回の主題ではないので詳述しないが、ミニマルアートにおける繰り返しの構造を「襞(ドゥルーズ)」として読む時、エヴァ・ヘッセの樹脂作品の形状は、単に素材を変えたのではない、襞としての作品のあり方をより明確にするものがあったように思える)

SansⅡ   1968   部分
この型を使用することのない、樹脂(FRP)による自由な形態という方向をさらに押し進めようとしたのが「Energism:An Attitud, by Ronny H.Cohen」でも触れられていたTom ButterのFRPによる作品だったとも思えるのだが、その後の展開が全く伝わらないのは残念なことである。
同様に、樹脂ではないが形態と構造において思考の方向性が共通するように思われる三次元の不思議な形態のキャンバス作品を、当時銀座にあった鎌倉画廊で展示していた斎藤隆夫のその後の展開も見ることがないのは残念だ。
三次元における絵画的感覚を実現しようとする作品は、フランクステラ以外展開を持続している作家はほとんどいない(そのステラにしても形態は先験的に決定されているのだが)。

Repetition NineteenⅢ      1968
TomButter  I.D   1981-2

 「歪みの導入=FRPによる自由な形成」による作品が生まれる前に、ジャクソン・ポロックの制作の中で絵画において初めて流動的なミディアムの力を最大限に生かした作品が生まれている。ポロックの制作中の映像を見ると、中空で放たれるエナメルが画面上に着地、着床する形状をコントロールしようと、筆(あるいは棒?)を細かく左右に振る様子を見る事ができる。
ポロックの制作では、キャンバスは床に水平に広げられていた。その水平面こそが重力によって落下するエナメルの流動性を受け止めて、それまでにない表現を作り出していたのだった。

ポロック作品


そのポロックの方向をさらに押し進めたルイスに至って、制作中の画面、キャンバス面はついに平面である事すら放棄され、ミディアムの流動性を受け止めるのみならず、共同して流動性を作り出すべく撓められ皺をつけられ、同時にミディアムの浸透によって一体化する、キャンバスそれ自体が基底材からミディアムの一部に変貌したのだった。ここからエヴァ・ヘッセの、樹脂の浸透するガラス繊維へはあと一歩だ。
ただ、ポロック、ルイス共に最終的には木枠に張られた状態での絵画として提示しているのだが、それは作家的、時代的な限界であったと考えることも可能ではないか。稿を改めて書きたいが、ポロックとルイスが採用し、展開したステイニングは余白があってこそのステイニングであり、余白のないステイニングは単なる技法に堕したアカデミズムにしか見えない。

ルイス作品
Morris untitled 1969

ミニマルアートの作家として有名なロバート・モリスがその後提唱した「アンチフォーム」は、ポロックとルイスの制作の方向を、さらに三次元の方向で確認したものと言えるだろう。物体的なものとして留まっている限界はこれもまた作家的、時代的なものか。

ポロックによるミディアムの流動性と、それに続いたルイスによるキャンバス自体のミディアムへの変化・変容、ロバート・モリスのアンチ・フォームこそが、型を使わない樹脂による自由な形態の前史であったのだと思う。
                                     古川流雄(美術家)


2014年11月6日木曜日

マネ   ー ミディアムの浮上 ー

マネ  ーミディアムの浮上 ー

机の上の、目の前にあるマネの「シャクヤクと選定ばさみ」のポストカードを見ている。

マネ「シャクヤクと剪定バサミ」1864

今年、オルセー美術館展で見た絵だが、その前に三菱一号館美術館での「マネとモダン・パリ」でも見ていた。シャクヤクがたった今、切られて目の前のテーブルの上に置かれたかのようにしどけなく置かれて、一本の茎は逆さまになってさえいる。普通ならば絵のモチーフとしては花瓶などに生けられている花が、ばさっとテーブルに置かれていることで、その花の重量感さえもが生々しく伝わってくるのは、マネによるモチーフの扱いの常套手段とも言え、「オランピア」や「草上の昼食」での女性の裸の登場のさせ方の生々しさと共通するように思う。絵とは異なるが、ロバート・モリスのアンチフォームの作品、壁に吊り下げられたフェルト作品を思い起こすと言ったら言い過ぎだろうか。


ロバート・モリス「無題」1967ー68

シャクヤクは筆にたっぷりとつけられた油絵具によって描かれていて、花や葉のイメージはもちろん伝わってくるが、それ以上に油絵具の存在感、それも柔らなミディアムとしての特質が伝わってくる。油絵初心者が、絵具特有の質感を使い損ねている時のような、そんな生々しい感覚が見てからずっと持続している。マネの絵では油絵具によって描くことの、様々な生々しさがそれ自体表現として使い分けられているように思う。モチーフの扱い方と絵具の扱い方、その両面での生々しさ。

このミディアムの生々しい存在感はそのまま20世紀も後半の、モダニズム絵画に直接結びつくように感じられる。
蜜蝋を混ぜた油絵具によるエンコスティックで描かれたジャスパー・ジョーンズの星条旗、その後のブライス・マーデンのパネルの合成による平面作品。油絵具そのままではないが、生々しいミディアムの存在感という点でマネの油絵具の特質と共通性があるように思える。ジャン・デビュッフェのアール・ブリュットの絵具が、乾いた印象であることとの違いが面白い。一見、ミディアムを強調しているかに見えるジャン・デビュッフェの画面なのだが、結果として伝統的な油絵具のあり方に近くなっていはしないだろうか。例えれば、クールベとマネのミディアムの違いのような。

ジャスパー・ジョーンズ「石膏型のある標的」1955

マネの生々しいミディアムに関連して、もうひとつ思い起こされるのは1980年に開催された「感情と構成」展に展示されていた中村功の3枚のパネル連結による平面作品だ。正方形の大きなパネルが三枚接続されていて、その表面は混ぜ物(トランスペアレント・メジューム?)によって半透明なグリース状になった油絵具が、混色された暗い色調でさざ波のようにざわついていた。その展示以前にも当時京橋?の古いビルの最上階?にあって階段を歩いて登った現代芸術研究室で、小さいサイズの作品に出会っていたのだった。そのミディアムのあり方は、それまで見た事がなく衝撃を受け、思わず指で触ってしまった覚えがある(写真は「感情と構成・展」カタログ表紙と中村功1991年作品)。


「感情と構成・展」カタログ表紙 1980

中村功「意勢34」1991

ミディアムそれ自体が新しさを感じさせて表現となっていた。形式的なあれこれよりも手前で、語りにくい場所で、ミディアムは感覚に直結して分ちがたく語り難く目の前にあったのである。


このミディアムのあり方の先には、それ自体が表現のありよう全体に影響を及ぼして、視覚芸術を組み替える、そういう地点がある。

2014年10月9日木曜日

身体性の所在                            ーバレエリュス衣装とステラのレリーフ・コンストラクションー


身体性の所在
ーバレエリュス衣装とステラのレリーフ・コンストラクションー

前回ブログではマネのとりわけ絵具の生々しいあり方について、今目の前の’’あらわれ’’について書いたのだった。

マネの絵の場合、モチーフはあるので、モチーフのイメージと絵具の生々しさが拮抗しながら見えていて、小さなアスパラガスの絵や花の絵においてはその生々しさが際立っていた。肖像画として描かれているにも関わらず、クレマンソーを描いた絵では、比較的薄塗りの絵具がその塗りをそのまま見せてもいた。どんな絵でも絵具の状態とイメージは拮抗しているが、マネの場合はその拮抗状態を際立たせながら、絵具の生々しさをより感じさせる。マネの油絵具特有のぐにゅぐにゅした、ある厚さを持った生々しさ。我田引水の極論と言われるだろうが、樹脂の持つ生々しさと共通するものさえ感じさせられる。
今目の前のあらわれ、などというと例えばステラのレリーフ・コンストラクションなどのあらわれと同じかと言えば、それは違う気がする。マネの場合の生々しさには、その後の絵画の展開とは異なる見方が可能な気がするが、それは今回のモチーフではない。

フランク・ステラについて書きたいと思う。

ポロックの、染み込みと表面への留まりの両面を持った画面の焼き直しかと思える、ステラ初期の黒いエナメルによる画面、表面への留まりを強調したメタリックな作品。その後のこれもルイス晩年の焼き直しのような染み込みを強調した多彩な画面。ただし、ステラの場合はいずれも色域の機械的、先験的な決定があることがポロック、ルイスと大きく異なる。ミニマルアートと言われる所以でもある。

その後のステラのレリーフコンストラクションでは、雲形定規の形が引用されて様々な角度を持たせられて重なっている。色彩は基底材と言うか骨材というか、アルミニウム素材が使われているので浸透することなく不透明に表面に存在する。その表面にある不透明な色彩を更に強調するのが、表面で色彩を乱反射させてきらめく素材、ラメのような素材の使用だ。作品全体のあり方と表面が、今目の前にあることを強調している。
アカハラシキチョウ 1979

注目したいのは作品を構成する各パーツの角度である。見る者にたいして様々な角度を持たせられていて、平らな絵画における見る者の目に対する垂直性とは別の原理に基づいていることが理解できる。
絵画における画面の垂直性と平面性はイリュージョンのためだろう。であるなら、ステラの様々な角度を持ち様々な目との距離を持たせられたパーツによるレリーフ・コンストラクションは、絵画のイリュージョンとは異なる見え方、見方が想定されていることになる。

マネを見たオルセー美術館展と同時期に開催されていたレオン・バクストなどによるバレエリュスの衣装を見た時、思い出されたのはステラのレリーフ・コンストラクションの色彩と形だった。ここでは詳述できないが、衣装の形とそのなかの色域の形、ベースの色彩と加えられた色彩の関係がステラにとても良く似ているように感じられたのだ。この感想は友人の作家も漏らしていたので、多くの人が感じたことなのだろう。ラメなど、光り物の使用もまた似ていた。ただ、こちらは衣装では良く使われるものである。と考えて行くと、ステラがバレエリュスの衣装を見ていたのではないか?という推測が出てくる。また、レオン・バクストのデザイン画などの展示もあったのだが、こちらの方がさらに関係を考えさせられる気がする。


もうひとつ考えたいのは、ステラがバレエリュスの衣装を見ていたとしても根本的に異なる点があることだ。バレエリュスでは衣装はダンサーに着られて、ダンスにより動き続ける。見え方を様々に変化させ、舞台の照明によって光り方を変え続けることだ。舞踊における衣装とはそういうものだろう。能衣装もまたそうである。目の前の舞台において、シテ方の舞と一体になって、舞の動きそのもの、光の動きの時間となって体験される、その衣装。美術館において目の前に展示されて動かないバレエリュスの衣装、能の衣装は、本来の姿の抜け殻のようなものでしかないのだろう。

ステラのレリーフ・コンストラクションでは作品は動かない。ただし、見る者が動くのだ。見る者を動かす、と言ってもいいかもしれない。作品のまえでじっとたたずみ、そしてあちらこちら移動しながら作品を見る。その、見る者の動きの中で作品は様々な姿を見せ、見る時間の中での見え方の変化など多様な視覚体験、その時間の流れ、その全体像として作品は体験される。
一カ所で、画面の正面に立ってじっと見る、目に対して垂直かつ平面として存在して見られる、それまでの絵画とは異なる見方を要求している。それは、見る者にその身体性を要求している。身体において見る、体験することを要求しているとも言える。

しかし、ステラ以前にポロックやニューマンの大画面が、実は見る者の身体性、身体とともに見る事を強く要求していたように思う。その大画面の前に行くと、自然に画面の前で近づいたり遠ざかったり、左右に移動して眺めたり、そこで体験されることを全体として総合することになる、そういう見方。それが体験できたひとつの典型的作品がバーネット・ニューマンの『アンナの光』だったのだが、今はもう日本にはない。大変残念なことである。

1950年前後、絵画はそれ以前とは異なるあり方、見る者の身体性を要求するあり方を作り出した。そして、それからほぼ30年後に制作されたステラのレリーフ・コンストラクションは、見る者の身体との関わりから、さらには時間まで加わり一体となった、時空間の感覚としての視覚のあり方を明示しているように思われる。

                                 古川流雄(美術家)


2014年9月11日木曜日

マネの生々しさ    ー メディウムとしての絵具のあらわれ ー


マネの生々しさ
   — メディウムとしての絵具のあらわれ

 モチーフの取り上げ方にまず生々しさはある。とりわけ「草上の昼食」はわかりやすい。基本的な構図を、ラファエロの絵画を元に制作されたルネッサンス期の版画から引用しながら、シチュエイションを19世紀フランスの同時代とした、歴史でも神話でもない、同時代のピクニックのスナップショットのような絵で裸の女性が描かれることの生々しさ。それも当然、マネの意図であっただろうが、絵画という芸術にマネが実際に付け加えた、あるいは組み替えた重要性はそこではないように思われる。

草上の昼食 1862~63


今回、オルセー美術館展に来ていて見る事のできた「笛を吹く少年」。少年の周辺の、ほとんど一様に広がるグレイにも明暗のニュアンスはあって、背後の壁あるいは空間、床を感じる事はできるが、ほとんど画面いっぱいに大きく描かれているのは画面中央の一人の少年である。

笛を吹く少年 1866


 帽子、上着、ズボンの帯とスリッパの黒、上半身に掛かる帯と靴下の白、ズボンと帽子の赤褐色による、黒と白と赤の対比が鮮やかだ。かつ、黒と赤の間に白が入ることで赤と黒が直接ぶつかることを避けてクッションになりながら、色彩対比の歯切れを良くしている。その、大きく広がる上着とズボンはそれほど厚塗りではない色域の広がりに、見る者に筆の動きを感じさせながら太い筆触が皺として伸びやかに走る。絵具というメディウムがとりわけその生々しさを見せるのは帽子の刺繍飾り、スリッパ先端などの小物、それと顔だ。手が筆を動かしながらたっぷりとした絵具を画面に置いていく。その、肉として感じられる絵具の生々しさ。

大きな色彩の対比と、肉としての絵具の生々しさがモチーフの存在感になる、その生々しさ。写真的なリアルとは別種の、今、目の前の生々しさとして。

 それにしても、並んでいるサロン系の作家達の、きれいに調理され肉としての絵具をほとんど感じさせない画面(カバネルの「ビーナスの誕生」!)に対して、クールベのペインティングナイフによってキャンバス表面に擦り付けられた絵具は、確かに少し肉であった絵具を感じさせるのだが、マネの、いっそ生肉とすら言いたい程の絵具の生々しさは何なのだろう?

 今回見た中で、「笛を吹く少年」に見られる生々しさは二つの系統として見る事ができる。そのひとつである上着やズボンの、比較的薄塗りで広がる絵具の生々しさを全面に出していたのがクレマンソーの肖像画だった。これが肖像画?と言いたい程、あいまいな顔、着衣は不気味ですらある。比較的薄塗りであるにも関わらず、それであるからこそ筆で引きずられる絵具の広がりが生々しく感じられる。

もうひとつの系統が少年の顔、帽子の刺繍、スリッパに見られる生々しさ、小さな一本のアスパラガス(何と魅力的な絵!)の絵や、花を描いた絵の、厚めの絵具だ。クァンタン・ラトゥールの花といかに異なるだろう!地球と系外銀河ほどに遠く感じられる。それらに見る、白を含んで少し不透明でありながら、絵具としての透明感も感じられる生々しさ。まるで絵画がその裸を見せているかのようなその生々しさについては、別の視点から書き継いでみたい。
古川流雄(美術家)

2014年7月10日木曜日

旧芝離宮恩賜庭園  ー 身体の移動と石組み ー


旧芝離宮恩賜庭園
  ー 身体の移動と石組み ー
 
雨の日の庭は良い。しっとりと垂れる藤の花の先、池の中央に、雨に煙る中島=蓬莱島の壮大な石組みが見える。
4月の終わりに旧芝離宮庭園を歩いた。江戸時代初期の庭として知られる。かつて行った記憶はあるのだが、晴れた日のホコリ臭く黒ずんだ石の記憶ばかり残っていた。
今回は連休の合間だが、雨の中で人のいない庭の広がり、新緑、石、全てが新鮮に感じられた。


藤の花と遠望する中島(=蓬莱島)

少し早く作られた金地院庭園の場合は見る人の身体の移動を前提とはしていない。室町時代の大仙院庭園は身体と視線の移動を使って構成しているが、移動が廊下に限定されているので、庭園の中に身を置く環境と身体の関係というよりは、一方的に眺める視線の移動に限定されている。

対して芝離宮庭園の庭は、身体が移動することによって、視線と石組みの関係が大きく変化する、そのことによって構成しているように思われる。

生類憐れみの令で名高い将軍綱吉に縁の深い庭である。古くは伊予松山藩主加藤嘉明の藩邸、1678年(延宝6)、唐津藩からのちに小田原藩主に転封された大久保忠朝が拝領、庭を大改造して楽寿園と称したという。1694年(元禄7)と1695年(元禄8)、将軍綱吉の御成りがあり、御殿とともに、御成りの庭として完成されているはず。とりわけ中島を中心とした中央部は将軍綱吉のために、綱吉が気に入るように作られたのでは、と想像される。石組みの豪快さ、派手さは、狩野派による二条城障壁画同様、将軍と武家の権力と地位を誇示しながら、中島(蓬莱島)、護岸、築山、枯滝と様々な石の組み方を見せてくれる、今に残る大名屋敷の庭園の代表格だ。

 
中央が中島(蓬莱島)
    
別方向からの中島(蓬莱島)近景

池の中央、蓬莱山を表現する中島の石組みの迫力。これでもかと言わんばかりに畳み込んで来る。中島は高さの異なる二つの山からなり、池の全周囲から見る事ができる石組みになっている。島には中国趣味の西湖堤が掛かる。元来は人が立ち入ることのない、仙人の住む蓬莱島に橋が架けられるようになるのは武家社会になって、その力を誇示するためであるという。


廻遊路を挟む枯れ滝石組


西湖堤が掛かる池の手前、やはり庭園全体の中央部を成す大きな築山の間に、とても特徴的な枯滝石組みがある。本来は人が歩くことのない、眺めるだけの枯山水の流れが、道になっていて歩ける。ここでは眺める石組みから、見る人の身体の動きと一緒に展開する、体感される石組みが構成されている。大仙院庭園の枯れ滝石組を思い起こすと、違いがより明瞭になる。歩く人の両側から大きな石組みが迫る、他にない石組みだ。観想する対象から体感する対象に変化している。


    
文中の護岸石組みを正面方向から望む



件の護岸石組み最上部に見える石組

庭園入り口側から中島と同時に眺められる、池の左側護岸石組みは、水際から園路まで迫り上る壮大な石組みを見せる。その護岸石組み最上部の大きな石は正面から見るとボリュームを感じるのだが、園路を回りながら側面を見ると、薄い石が斜めに地面から突き出していて、昭和の看板建築のようでさえある。正面の見え方と意味とは別に、斬新な石の立て方の面白さを感じる事ができる。正面視される遠望では護岸最上部石組みにも見えながら、その実、独立して斜めに立っている薄い岩。根府川山の側面と同様な仕組みだ。


    
根府川山を正面から見る


根府川山石組みを側面から見る



中島から八つ橋を渡って大島を抜け、少し奥まった所に根府川山がある。根府川は大久保忠朝が唐津藩から転封された小田原にあり、石が有名だ。元は忠朝の祖父が藩祖、里帰りでもある。築山に渡る大きな石橋はその根府川石だろう。築山は正面から見るとあたかも山のように池に向けて片側斜面に石が組まれている。正面からは中島と似たような石組みに見えるが、側面からの眺めの迫力に驚ろかされる。正面の形と意味とは異なる、石の組み方自体の面白さを見せている。池に向かう斜面に、次々になだれ落ちるかのように組まれた大石が迫力だ。この庭で最も好きな石組みである。明らかに廻遊路を巡る人の移動、視線の移動による石の見え方の変化を意識した、劇的とも言える石組みであり、象徴的な意味に縛られない、見る事自体による石組みになっている。石を組んだ人の気持ちが伝わって来るようだ。



庭園奥にある唐津山


園路をさらに進んで、池から離れた場所に唐津山という銘のある石組みがある。築山にもなっていない平たい地面に石だけで組まれている。それだけに石組み自体を見せていると言えるかもしれない。渋く、押さえた力強さがあり、石組みとしては古典的な、西芳寺の枯れ滝石組などをも想起させる。

唐津は大久保忠朝が小田原藩の前に相続した地であり、そのことを記念してのものか。奥まった場所に築山もなしに組まれていることに大久保忠朝の人柄が忍ばれる気がする。新たな任地、小田原を表現していると思われる根府川山も池の外で片側斜面であり、池の周囲全てから眺められる将軍綱吉=幕府の権威の象徴としての中島より、場所、作り方ともに格下に見えるように作られている。難しい将軍に仕えた大久保忠朝の深い配慮を感じるのだが、根府川山の石組み自体は側面から見た時に、中島より石が大きい事、片斜面であることにより、全周囲から見られる、完全な山である中島よりも、かえって迫力が感じられると思う。


この庭園の石組みは特徴的であり、廻遊路を移動する身体と視線の移動によって見え方が大きく変化する、石の組み方の様々を見て楽しむ事ができる。また、石組みの意図がよく伝わってくるように思う。
(美術家 古川流雄)

付記:今回の取材は4月30日、5月9日に行っている。

参考文献
1、「日本の10大庭園  何を見ればいいのか 」 重森千青著
  祥伝社 2013年
2、「図解 庭師が読み解く作庭記」  小埜 雅章著
  株式会社学芸出版社 2013年
3、「名園を歩く 第4巻 江戸時代初期Ⅰ」 写真:大橋治三 解説:斎藤忠一
  毎日新聞社 1989年