2014年6月10日火曜日

大徳寺大仙院庭園    — 枯山水と北宋水墨山水画 —


大徳寺大仙院庭園
 — 枯山水と北宋水墨画 —

500年も前に作られた庭を見る事、書く事が、今現在の作品と同じように私を動かす、庭に自分を接続することが可能であり自分が作動し始める、その事がとても興味深い。庭が、それを見る自分の身体の動きを伴いながら意味を持ち始めるのであれば、今、書く理由は充分ある。

大徳寺塔頭、大仙院の方丈庭園は龍安寺と並ぶ、枯山水を代表する庭園だが、その成立年代、表現は異なる。
龍安寺枯山水庭園は、木も草も敷地の高低すらもない、油土塀に囲まれた平坦な長方形の敷地、一面の平らな白砂に散在する5つの石組みだけの庭。成立年代は不明。
その石組みには、滝石組みも鶴亀蓬莱石組みもなく、庭全体による描写性もないように思える。
5組の石組みそれぞれが、石の形と組み方でできる表情、面白さを追求している、石組みという形式性の勝った庭のように思える。
また、5つの石組みを見る視線は、それぞれの石組みに対して別々の視線であり、移動する視線の動きは組み込まれていないように思える。
4月に書いた金地院庭園、江戸時代初期を代表する枯山水だが、視線はひとつであるように思える。言わば一枚の絵。

大仙院は古嶽宗亘(こがくそうごう)禅師により1509年に創建、方丈は1513年建立、作庭の趣味も持っていた師によって庭も作られたと伝えられている。応仁の乱以後の京都の荒廃と窮乏する経済状況を背景としてもいるようだ。
奥行きが狭い上に、方丈北東角で鉤型に曲がり、加えて東側の敷地中央を透渡殿が横断して三つに分かれる。本来であれば庭に適しているとは言いがたい敷地条件を逆手に取って、北宋水墨山水画における「三遠」の高遠、深遠、平遠という遠近の構成方法を、人の視点の移動で実現したかのように見える。

枯山水は、方丈北東角にある住職の居室「書院の間」に面した、蓬莱山を表現する大きな2つの立石と枯滝を中心にして、東から南に至る流れ、北から西に向かう2つの流れを表現している。南の庭は本来の儀式用の庭として、二つの盛り砂だけがある白砂の広がり、大海の表現になっている(現在は南西隅に娑羅が植えられている)。

この庭の核心部、北東の庭は、「高遠」の表現を石組みで実感させる。
庭全体の中心でもある二つの大きな立石、不動石と観音石は、山水画の深山の表現を見せ、とりわけ書院に座る視点からは「高遠」そのままに、山を仰ぎ見ることになる。

北東庭の中心部分

そこには仕掛けがある。方丈の床と地面の高低差は、敷地の大きな庭であれば特別の対策を必要としないが、縁側から塀までの奥行きが狭いこの庭の場合、そのままでは見下ろす庭になってしまい、高遠としての表現は不可能である(高遠にしない例としては、大徳寺真珠庵の庭が想起される)。解決策として庭に土を入れて、縁側と地面の差を30cm程度までに近づけ、二つの立石と築山に組まれた滝を、正面から仰ぐように眺めさせる。

不動石右奥から落ちる滝の流れは数段落ちて北と南に別れ、主な流れは石橋の下を南に向かい、庭を横切る透渡殿とその下の堰を表現する横石によって景が大きく切り替わる。
滝のある北東の庭が高遠の表現なのに対して、横切る透渡殿の壁が視線を遮って場面を転換、南東部分の庭では表現の距離がぐっと近くなり、宝船を表現する長船石の大きさも不自然に感じさせない。
南東庭


「書院の間」に向かって歩く人の動きと視線は上の説明とは逆に、中流の流れを表現している南東の庭を南端から長船石に向かい、「深遠」の表現を水墨山水画の下端から奥に向かって辿るように歩いて行くことになる。
透渡殿の壁に穿たれた火灯窓から奥を眺めた後、壁が大きく場面転換して、北東の山と滝による庭全体の核心部に向かう。
透渡殿の壁が山水画の、山から下りて来る、また渓谷から立ち上る霧のような役割を果たしているようにも思える。

北東の庭に続く北の庭は、深山=立石から直角に左に向かう。ここでは鉤の手に曲がる廊下の方向転換が場面転換ともなり、また書院北側の戸が通常は閉められて、書院からの横の視線を遮る。このことによって、廊下を歩く人の視線に対して山水画の「平遠」という表現方法を実現し、深山の奥に重畳する遠望を作り出しているのではないかと考えるのだが、この解釈は少々強引だろうか。

この庭を見ていると、北宋山水画を代表する郭熙の「早春図」、そこで使われている「三遠法」の深遠、高遠、平遠を思わずにはいられない。
住職の住まう書院の間に向かう人がまず見る事になる南東の庭、庭全体の中心となる北東の庭と山、その左に続く北の庭。それぞれが深遠、高遠、平遠の表現になっているように見える。

郭熙「早春図」


日本に於ける水墨画の受容は中国南宋の牧谿らの絵が中心であったという。
大仙院方丈の庭を見て思ったことは、郭熙に代表される北宋水墨山水画の伝統は、日本では枯山水という庭の形式として、絵画とは異なる所を得たのではないか、というひとつの推測であった。
                               古川流雄(美術家)

<付記>
1、前回5月の龍安寺についてのブログと今回の大仙院についてはほぼ同時に書き進めて、大仙院庭園について郭熙の三遠法を適用するというアイデアによってほぼ書き上げていたのだが、その段階で5月の早見先生の文章を読み、郭熙の三遠法を使って光琳の燕子花図を書いていることに驚かされた。考えてみれば三遠法は水墨画の基本的な構成法であり、日本の絵に様々な影響を与えているのは考えられることで、自分の絵画への考えが今までそこに思い至らなかったのだと考えさせられる事にもなった。
2、だいぶ以前、北宋水墨山水画が見たくて台北の故宮博物院に行った事があるのだが、工事中でいくつも見られなかった。郭熙の「早春図」は展示されていなかったと思う。

参考文献
1、「日本の10大庭園  何を見ればいいのか 」 重森千青著
  祥伝社 2013年
2、「京の庭師と歩く 京の名庭」  小埜 雅章著
  株式会社平凡社 2003年
3、「図解 庭師が読み解く作庭記」  小埜 雅章著
  株式会社学芸出版社 2013年
4、「京都名庭園」 水野克比古著
  光村推古書院 2002年
5、「名園を歩く 第2巻 室町時代」 写真:大橋治三 解説:斎藤忠一
  毎日新聞社 1989年