2014年10月9日木曜日

身体性の所在                            ーバレエリュス衣装とステラのレリーフ・コンストラクションー


身体性の所在
ーバレエリュス衣装とステラのレリーフ・コンストラクションー

前回ブログではマネのとりわけ絵具の生々しいあり方について、今目の前の’’あらわれ’’について書いたのだった。

マネの絵の場合、モチーフはあるので、モチーフのイメージと絵具の生々しさが拮抗しながら見えていて、小さなアスパラガスの絵や花の絵においてはその生々しさが際立っていた。肖像画として描かれているにも関わらず、クレマンソーを描いた絵では、比較的薄塗りの絵具がその塗りをそのまま見せてもいた。どんな絵でも絵具の状態とイメージは拮抗しているが、マネの場合はその拮抗状態を際立たせながら、絵具の生々しさをより感じさせる。マネの油絵具特有のぐにゅぐにゅした、ある厚さを持った生々しさ。我田引水の極論と言われるだろうが、樹脂の持つ生々しさと共通するものさえ感じさせられる。
今目の前のあらわれ、などというと例えばステラのレリーフ・コンストラクションなどのあらわれと同じかと言えば、それは違う気がする。マネの場合の生々しさには、その後の絵画の展開とは異なる見方が可能な気がするが、それは今回のモチーフではない。

フランク・ステラについて書きたいと思う。

ポロックの、染み込みと表面への留まりの両面を持った画面の焼き直しかと思える、ステラ初期の黒いエナメルによる画面、表面への留まりを強調したメタリックな作品。その後のこれもルイス晩年の焼き直しのような染み込みを強調した多彩な画面。ただし、ステラの場合はいずれも色域の機械的、先験的な決定があることがポロック、ルイスと大きく異なる。ミニマルアートと言われる所以でもある。

その後のステラのレリーフコンストラクションでは、雲形定規の形が引用されて様々な角度を持たせられて重なっている。色彩は基底材と言うか骨材というか、アルミニウム素材が使われているので浸透することなく不透明に表面に存在する。その表面にある不透明な色彩を更に強調するのが、表面で色彩を乱反射させてきらめく素材、ラメのような素材の使用だ。作品全体のあり方と表面が、今目の前にあることを強調している。
アカハラシキチョウ 1979

注目したいのは作品を構成する各パーツの角度である。見る者にたいして様々な角度を持たせられていて、平らな絵画における見る者の目に対する垂直性とは別の原理に基づいていることが理解できる。
絵画における画面の垂直性と平面性はイリュージョンのためだろう。であるなら、ステラの様々な角度を持ち様々な目との距離を持たせられたパーツによるレリーフ・コンストラクションは、絵画のイリュージョンとは異なる見え方、見方が想定されていることになる。

マネを見たオルセー美術館展と同時期に開催されていたレオン・バクストなどによるバレエリュスの衣装を見た時、思い出されたのはステラのレリーフ・コンストラクションの色彩と形だった。ここでは詳述できないが、衣装の形とそのなかの色域の形、ベースの色彩と加えられた色彩の関係がステラにとても良く似ているように感じられたのだ。この感想は友人の作家も漏らしていたので、多くの人が感じたことなのだろう。ラメなど、光り物の使用もまた似ていた。ただ、こちらは衣装では良く使われるものである。と考えて行くと、ステラがバレエリュスの衣装を見ていたのではないか?という推測が出てくる。また、レオン・バクストのデザイン画などの展示もあったのだが、こちらの方がさらに関係を考えさせられる気がする。


もうひとつ考えたいのは、ステラがバレエリュスの衣装を見ていたとしても根本的に異なる点があることだ。バレエリュスでは衣装はダンサーに着られて、ダンスにより動き続ける。見え方を様々に変化させ、舞台の照明によって光り方を変え続けることだ。舞踊における衣装とはそういうものだろう。能衣装もまたそうである。目の前の舞台において、シテ方の舞と一体になって、舞の動きそのもの、光の動きの時間となって体験される、その衣装。美術館において目の前に展示されて動かないバレエリュスの衣装、能の衣装は、本来の姿の抜け殻のようなものでしかないのだろう。

ステラのレリーフ・コンストラクションでは作品は動かない。ただし、見る者が動くのだ。見る者を動かす、と言ってもいいかもしれない。作品のまえでじっとたたずみ、そしてあちらこちら移動しながら作品を見る。その、見る者の動きの中で作品は様々な姿を見せ、見る時間の中での見え方の変化など多様な視覚体験、その時間の流れ、その全体像として作品は体験される。
一カ所で、画面の正面に立ってじっと見る、目に対して垂直かつ平面として存在して見られる、それまでの絵画とは異なる見方を要求している。それは、見る者にその身体性を要求している。身体において見る、体験することを要求しているとも言える。

しかし、ステラ以前にポロックやニューマンの大画面が、実は見る者の身体性、身体とともに見る事を強く要求していたように思う。その大画面の前に行くと、自然に画面の前で近づいたり遠ざかったり、左右に移動して眺めたり、そこで体験されることを全体として総合することになる、そういう見方。それが体験できたひとつの典型的作品がバーネット・ニューマンの『アンナの光』だったのだが、今はもう日本にはない。大変残念なことである。

1950年前後、絵画はそれ以前とは異なるあり方、見る者の身体性を要求するあり方を作り出した。そして、それからほぼ30年後に制作されたステラのレリーフ・コンストラクションは、見る者の身体との関わりから、さらには時間まで加わり一体となった、時空間の感覚としての視覚のあり方を明示しているように思われる。

                                 古川流雄(美術家)