2014年9月11日木曜日

マネの生々しさ    ー メディウムとしての絵具のあらわれ ー


マネの生々しさ
   — メディウムとしての絵具のあらわれ

 モチーフの取り上げ方にまず生々しさはある。とりわけ「草上の昼食」はわかりやすい。基本的な構図を、ラファエロの絵画を元に制作されたルネッサンス期の版画から引用しながら、シチュエイションを19世紀フランスの同時代とした、歴史でも神話でもない、同時代のピクニックのスナップショットのような絵で裸の女性が描かれることの生々しさ。それも当然、マネの意図であっただろうが、絵画という芸術にマネが実際に付け加えた、あるいは組み替えた重要性はそこではないように思われる。

草上の昼食 1862~63


今回、オルセー美術館展に来ていて見る事のできた「笛を吹く少年」。少年の周辺の、ほとんど一様に広がるグレイにも明暗のニュアンスはあって、背後の壁あるいは空間、床を感じる事はできるが、ほとんど画面いっぱいに大きく描かれているのは画面中央の一人の少年である。

笛を吹く少年 1866


 帽子、上着、ズボンの帯とスリッパの黒、上半身に掛かる帯と靴下の白、ズボンと帽子の赤褐色による、黒と白と赤の対比が鮮やかだ。かつ、黒と赤の間に白が入ることで赤と黒が直接ぶつかることを避けてクッションになりながら、色彩対比の歯切れを良くしている。その、大きく広がる上着とズボンはそれほど厚塗りではない色域の広がりに、見る者に筆の動きを感じさせながら太い筆触が皺として伸びやかに走る。絵具というメディウムがとりわけその生々しさを見せるのは帽子の刺繍飾り、スリッパ先端などの小物、それと顔だ。手が筆を動かしながらたっぷりとした絵具を画面に置いていく。その、肉として感じられる絵具の生々しさ。

大きな色彩の対比と、肉としての絵具の生々しさがモチーフの存在感になる、その生々しさ。写真的なリアルとは別種の、今、目の前の生々しさとして。

 それにしても、並んでいるサロン系の作家達の、きれいに調理され肉としての絵具をほとんど感じさせない画面(カバネルの「ビーナスの誕生」!)に対して、クールベのペインティングナイフによってキャンバス表面に擦り付けられた絵具は、確かに少し肉であった絵具を感じさせるのだが、マネの、いっそ生肉とすら言いたい程の絵具の生々しさは何なのだろう?

 今回見た中で、「笛を吹く少年」に見られる生々しさは二つの系統として見る事ができる。そのひとつである上着やズボンの、比較的薄塗りで広がる絵具の生々しさを全面に出していたのがクレマンソーの肖像画だった。これが肖像画?と言いたい程、あいまいな顔、着衣は不気味ですらある。比較的薄塗りであるにも関わらず、それであるからこそ筆で引きずられる絵具の広がりが生々しく感じられる。

もうひとつの系統が少年の顔、帽子の刺繍、スリッパに見られる生々しさ、小さな一本のアスパラガス(何と魅力的な絵!)の絵や、花を描いた絵の、厚めの絵具だ。クァンタン・ラトゥールの花といかに異なるだろう!地球と系外銀河ほどに遠く感じられる。それらに見る、白を含んで少し不透明でありながら、絵具としての透明感も感じられる生々しさ。まるで絵画がその裸を見せているかのようなその生々しさについては、別の視点から書き継いでみたい。
古川流雄(美術家)