2017年2月7日火曜日

「山田正亮の絵画」私論  ーWorkC.73とWorkC.77ー

今、東京国立近代美術館で回顧展が開催されている山田正亮についてはこれまでに数多の批評が書かれ、今展カタログにも詳細を極めた論評が載せられている。にもかかわらず、一作家の僕があえて書くのは、学生の頃から意識にあり続ける作家の作品について、この機会に自身としての考えをまとめておきたいと思ったからだ。1980年前後、大学院も終わる頃、学内の守旧的な作品とも、ことさらに現代的であろうとするような作品にも馴染めないでいた頃、自律的な制作に基づく山田の作品は大きな光明となった。

心の中心は1960年から1978りまでの作品が持っている、否定性を孕んだ画への意と、それ故に生まれた作品群だ。
絵画への否定性は抑制的で静かな画面を生み出し、キャンバスと油彩というメディウムそれ自体のエロティシズムが自的に立ちれる表に至っている。

山田の画の、抑制的ではあっても絵筆で描くことを保ち続ける経験的な性格と画への否定的な意識が最も的にびついて、高い緊張倒的な異質=オリジナリティをせているのが1960年に制作された端にのフォマットに多色の横ストライプが描かれている2点の作品Work C.73Work C.77であると思う。今回展示でも久しぶりに見ることができたが、同時期の他のストライプ作品と間隔も狭く並べられてしまっていることで、若干その独自性が見えにくくなっていたかもしれない。


WorkC.73   1960


WorkC.77   1960




一見同じように見えかねない山田のストライプ作品だが、作品個々の表現の性格は異なる。このよく似た成り立ちの2点の作品も色彩の組み立てにおいては異なっていて、Work C.73は少し暗い青と緑に対して明度の近い赤が強い色相対比を見せて、後年のWorkC.355Work.C400前後の作品群の、近い明度での色相対比につながる。Work C.77では青系統とイエローオーカー系統の色彩が、それぞれ明度のバリエーションを見せながら静かな対比をなして、後年のWorkD.92WorkD.100の、明度対比によるストライプの作品群につながる表現を持っている。
ちなみにWorkC.355Work.C400では画面上端のストライプの幅が狭くなっていて、物理的なキャンバス平面と描かれた視覚的な画面にズレが生じることで、描かれた画面の視覚性の担保が為されていて、一見したところ似て見えるミニマルアートの先験性、演繹性とは無縁であることが分かる。
対して、WorkD.92WorkD.100ではストライプ幅が広くなると同時に同じ幅になって先験性が強まる。比較するとWorkC.355Work.C400の方がより山田の独自性が強いように思われる。


WorkC.400                          1969


WorkD.100                            1972


Work C.73Work C.77の「ストライプが一に引かれる必要があった(本人)用したのだというその異様に狭い縦長のフォマットは、側面で確認できるようにドンゴロスと思われる荒い麻布がられて、描かれた後でも表面に荒い毛羽立ちの影く残っている。筆跡両脇頻発するの具の盛り上がり、溶剤が多い場合に生じる絵具の垂れなどのメディウムの感は、日本近代洋画の油具の質そのままに、しかし、フォーマットと表面の毛羽立ちとともにかつてたことのないな「何か」に変容し、作者から離脱した作品それ自体の強い自発的エロティシズムが立ち上がる。ストライプを横に引くということだけに限定、抑制された描くことと、通常の絵画空間を生じさせないほどに幅の狭い縦長のフォーマットを採用していることによって、絵の具とキャンバスは強いエロティシズムを持った肉体と化している。

自然に生じたかに見える絵の具の「盛り上がり」、「垂れ」は、制作中に作家自身に意識されコントロールされているように見える。古い油絵具の用法そのままに、盛り上がりと垂れなどによって立ち上がるこのメディウムの自発的なエロティシズムの発現は、日本近代洋画の最後の到達点であると同時に、日本における現代美術のひとつの出発点ともなるものに思える。
絵筆で描くことを横方向に色帯を描くことだけに限定することによって、近代洋画の絵の具とキャンバスはそれまでありえなかった肉体の自発性を獲得、絵画のあり方を変容させている。

ストライプは画でありながら、自由に描くことへの否定、抑制をせている。そのことはアメリカのミニマルアトにも近いのだが、山田の合、常に描くことの昧さを残し、絵筆で描くことの範囲で起こることを中心に見ているように思えるところが、演的で断定的なミニマルアトとは大きくなっているように思う。この昧さを画であることへの留保とも言えるだろうか。

さらに、山田の油具の使用方法と感、メディウムへの感が、明治以来の日本近代洋画そのままであることが、ミニマルアトに端的に見られるようにメディウム、素材のあり方においても感覚を一新したアメリカ20後半の画と大きくなっているところだ。制作におけるメディウムへの感においては古いままに、しかしそのあらわれ方を変容させた独自な表に至っている。それは日本近代の感覚を、そのまま現代に変容させたとも言える。

この感の古さとも言えるかもしれないメディウムへの感が、画への否定性とバランスを取ることで新しい芸術のありかたを成立させ、かつ画への否定性が近代の絵の具の感覚を別次元に変容させるという、微妙で独自なバランスの上に立っているのが山田のこの時期の芸であり、唯一無二の独自性である。

                             古川流雄(美術家)